柿舞わす

このブログは、ひらう子のブログです。

一週間ブログ続けてみたけど私は漫画描きたい人間なのだなと

このブログを始めて一週間が経ちました。

毎日更新と気張るのは辛いので、このブログは不定期更新のブログと考えています。ただ、まずは試しに一週間だけ毎日更新やってみて感覚を掴もうと思っていましたので、一部日付を跨いだりしつつも、その目標は達成できて良かったという感覚です。

さてまあ、とりとめなく気が乗ったときにつぶやくTwitterと違って、ブログらしくそれなりに内容のある記事を書こうとすると、ネタを考えるという行程が必要になってきます。で、今日は何を書こうか、こんな内容はどうかな、等と思考を廻らすのですが…どうもネタが出掛かった時に、「いや、このネタは漫画という形で描きたいなあ」という感じでブログ記事にする事を避けるというパターンが何度もありました。

漫画を描く人間には幾つかの種類がいて、その中でも、「純粋に絵と漫画を描く事が楽しいタイプ」と「絵や漫画を媒体に何かを伝えたいタイプ」に大きくは分かれるという話を聞いたことがあります。私はそれを聞いたとき、自分は後者だと感じたのですが、一週間ブログを書いてみてそれを再認識させられました。文章で表現することも悪くないのですが、ここぞという話は、漫画でガツンと伝えたいという意識が私の中に根強く存在するようです。

どうあれ、考えを漫画にするというのは中々に手間の掛かる事ですので、ある程度漫画による表現力がないと出来ませんし、加えて、描く前に考えを伝えやすく整理する能力も必要です。考えを整理する能力は、ブログを書く事がある程度の訓練になっている感覚があります。漫画による表現力も、多くの方に支えられつつ、じわじわと伸ばして来れていると自分では感じています。なので、漫画で自分の考えを形にする能力も徐々についてくるのだろうという予感があります。

ただ、「能力がしっかり身についてから動く」というのでは、どうやら人生効率が悪いようだと、これまで生きていた中で感じています。ですので、もう少し積極的に自分のやりたい表現を実践していく事が大事なのだろうなあとしみじみ思う、ブログ開始一週間の仕舞いでありました。

球技が嫌いだった私が、大学の授業から楽しめるようになった話

昔から、体育の授業が嫌いでした。とにかくしんどいですし、体力が無く体を動かすことに苦手意識があった私には、全然楽しいと思えませんでした。特に、球技が嫌いでした。しかし大学で受けた体育の授業で、球技というものへの見方が大きく変わったのでした。


私がそれまで受けてきた体育の授業は、体育祭の練習などのイベントごとを除くと、マット運動や走る競技や水泳、あとは武道に、球技といった感じです。オーソドックスな内容です。

私はあまりスポーツ観戦などをする方ではありませんので、サッカーやバスケをする事になっても、ルールは分かりません。しかし、多くの生徒はルールを普通に知っていて、頭に入っています。なので、教員はきっちりとしたルール解説をしてくれません。全く解説がなかったという事はないと思うのですが、思い返せばさほど綿密なものではなく、今まで触れたことのないスポーツを覚えていく過程としては全く不十分だったように思えます。私はもともと体力が周りより劣っていた上に、ルールを把握していないというのでは、周りも私にボールを回してくれません。ボールを回してくれないから、余計にルールが覚えられません。全くの悪循環でした。

一応、ルールが簡単で、かつボールが回ってこなくても体を動かせるドッヂボールもありましたが、ボールに当たって外野に行けば、後はずっと暇なだけです。それに、攻撃が出来ないというのはやはり楽しくありません。

中学生頃、学校とは別にテニス教室に通っていたこともありましたが、すでにその頃には球技嫌いが私の中で定着しており、テニスを習うといっても運動不足解消さえ出来れば良いと言うスタンスでした。まともに試合などをした覚えはありません。(一応、球技の中でもテニスに対しての苦手意識は今現在無いので、テニス教室に行った事自体は正解でした)


さて、大学の体育の授業(といっても私は大学生を二回経験しまして、これは二回目の大学生生活での話です)は、競技を選択することが出来ました。サッカーやソフトボール等のメジャーなスポーツが並ぶ中、ハンドボールという選択子がありました。サッカーもソフトボールも、高校までの体育の授業では全く楽しめなかった競技でしたし、私自身の好奇心もあり、私はハンドボールを選択しました。後から考えるとそれが正解でした。

授業はハンドボールの解説から始まりました。マイナースポーツで皆ルールが分からないという事が前提ですので、ちゃんと指導教員の先生がルールや大まかな流れを解説してくれます。ハンドボールをやる上での準備運動や体力づくりも綿密です。ある程度ルールが飲み込めてフォーム練習やパス練習が終わったら、実際の試合の映像を見る事になりました。試合の映像を見ながら、試合運びの定石についての解説を聞きました。そして、試合です。ルールをちゃんと理解した上での試合ですから安心感がありますし、それほど活躍は出来ませんでしたが、それまでになく楽しかったです。

教員の先生は、専門がスポーツ科学の研究者でした。思い切って、基礎体力をつける為の方法を聞いてみると、学業の合間に出来る手軽な運動を幾つか教えて貰えました。運動という苦手分野に対して、大学の授業のハンドボールを通じて、それまでにない希望が見えたのでした。


私は大学の授業でのハンドボールが球技への苦手意識が解消に繋がった訳ですが、思うに、それまでの苦手意識の原因は、ルールをしっかり学んで試合で失敗しながら定着させるという過程が、授業で体験できていなかったからなのです。恐らく私のように、ちゃんとした解説なしに学校の授業で中途半端な体験をした結果、競技が嫌いになったりもしくは運動が嫌いになったりというケースはかなり多いのではないかと思います。

体を動かす事は良いことですし、人とスポーツで競うというのは、少なからず楽しい要素が存在しているものだと思います。それなのに、体力面ではなく知識面の指導が原因で、生徒が競技を嫌いになったり運動自体を嫌うようになってしまうのは、かなり問題がある事だと感じます。

スーパーマリオブラザーズに感じる、おもちゃ作りの気遣い

スーパーマリオブラザーズといえば、2D横スクロールアクションゲームの草分け的な存在です。ジャンプで敵や障害物を避けながら、不思議なアイテムでパワーアップして進むというスタイルは、後々の多くのゲームに影響を与えました。マリオというキャラクターはアクションだけでなくパズルやレース、パーティーゲームなど色々なジャンルのゲームに出演しているものの、「マリオみたいなゲーム」と聞いたら、ほとんどの人はスーパーマリオブラザーズを思い浮かべると思います。

フリーゲームや同人ゲームでは、スーパーマリオブラザーズのパロディゲームも多く作られています。システムはほぼマリオブラザーズを踏襲し、キャラクターだけ流行のアニメキャラになっていたりするゲームがいくつもあります。ゲーム製作者が既存のアクションゲームのクローンを作ってみようと思ったとき、マリオブラザーズは直感的で面白いので、課題として取り組みやすいのでしょう。

さて、何かとパロディの多く作られるマリオブラザーズですが、多くのパロディゲームでは取り入れられていない、本家マリオブラザーズの特徴がある事に気がつきました。それは、はてなブロックの表示についてです。多くのパロディゲームでは、はてなブロック(もしくはそれに相当するもの)は「?」マークの書かれた黄色い四角の動かないブロックとして表示されています。しかし、実は本家のマリオブラザーズでは、はてなブロックはピカピカと点滅しているのです。

恐らくピカピカと点滅している事で、「このブロックを叩いてごらん」と、プレイヤーに促しているのです。マリオブラザーズのパロディゲームにおいては、既にユーザは「?のついたブロックは叩けば何か出てくる」という知識が当たり前のものとなっています。それが当たり前過ぎてそういった演出が盛り込まれない事が多いのだと思うのですが、勿論、本家マリオブラザーズはそんな前提が無い中で作られたゲームです。ですから、叩けば特殊なことが起こるオブジェクトは、何かしらの方法で目立たせなければいけなかったのです。

考えてみれば、マリオブラザーズでは、触ったり叩いたりして何か特殊効果のあるものはほとんど、何かしら動きがある形で作られています。動きが無いのは土管とレンガブロックとPOWブロックくらいです(動きの演出が無くても、配置やステージ1-2のオープニングデモを見ると、やはり分かりやすく作られていると思います)。マリオブラザーズはゲーム丸ごとでデータサイズが40キロバイトしかない事を考えると、わざわざそのような動きを付けたのは、ユーザへのかなりの気遣いだと感じます。この流れはその後も続いていたようで、マリオ3はてなブロックの表示が「?が横スライドする」という演出にバージョンアップされていたりしますので、創意工夫で改善していくという形で気遣いは続けられていたと考えられます。

私はこの辺りに、任天堂の「おもちゃ会社」らしさを感じます。おもちゃの説明書は、利用者には滅多に読まれません。子供が使うからという意味でもそうですし、大人でもおもちゃで遊ぶときには、説明書を読む必要の無い直感的なものを望むことがほとんどでしょう。「ボタンを押すとロケットパンチが飛ぶ」とか、「ハンドルを回すと音が鳴る」とか、そういう単純で分かりやすい事が、おもちゃには重要なのです。

そういう意味で、マリオブラザーズの光るはてなブロックは、おもちゃらしい分かりやすさをゲームに持ち込んだ結果なのではないでしょうか。現在のスマホゲーム時代においても任天堂が大会社として生き残っているのは、そういったことが要因の一つではないかと、私は考えていたりするのです。

アナログ絵を見に行く楽しみ

アナログ絵は楽しいです。描くのも楽しいですし、見るのも楽しいです。デジタル絵や、印刷に出すようなイラストでは出せない表現というのがかなりあり、作家の工夫や技巧から、絵描きとして刺激を受けたりします。

デジタル絵は基本的にRGBですので、例えば、画面に凹凸がありません。しかし、人間は二つの目で物を見ますから、絵の表面の立体感には結構敏感なものです。油絵などは、筆跡が表面の凹凸としてはっきり残ったりしますので、ある種、浮き彫りのような迫力が出たりします。作品によっては、凹凸のおかげで印刷されたものとは比べ物にならない奥行きを感じさせてくれます。

アナログ画材は画材の使い方で、表面を部分的にマットな質感にしたり、テカらせたりといったことが出来ます。印刷物でも一応可能なのですが、絵を描くのと同時にテカりを調整するということは難しいでしょう。全く同じ色を使っていても、テカりにより塗りに変化を持たせることは出来るので、特定のものを目立たせたりすることも出来ます。構図や色彩とは別の形で、画面のメリハリを作ることが出来ます。

アナログ画材には、パール調にしたり、メタリックにしたりなどといった、色彩以外の質感表現を出来るものがあります。特に日本画や版画においては、顔料に雲母を混ぜた画材を用いたりして、金属光沢のある画面を作ったりしているものがあります。平面的な表現に、特有の重厚感を持たせたりといった表現が使われます。


ぶらぶらとアナログ絵を見たい時には、美術館などに行けば良いのですが、もっと気軽に色々な技巧を見たい時には、美術学校や美大の作品展などに行くのが面白かったりします。若い人の絵を見に行くという視点でも面白いのですが、学生の展覧会は、表現技法を一覧出来るという点でも面白いです。

また、デパートなどで行われている個展に行くのも面白いです。デパートの個展と言うと、何かとハードルが高いものと感じる人も多いのですが、さほど気にせずうろうろと入って問題ありません。デパートでやっているからといって、高尚で限られた人しか見てはいけないと言うことはなく、作家も、色々な人に見てもらい気に入ったら買ってもらうべく個展をしているのです。場合によっては、どの絵が良かったかなど聞いてくる作家の人もいますし、その場合は気軽に応えれば良いと思います。


デジタルの絵が世にあふれる時代だからこそ、何か刺激が欲しい時に、アナログ絵を見るというのはかなりおすすめです。

大魔王なのに角がない、ピッコロ大魔王のデザインについて

最近ドラゴンボールにハマっています。ハマっているというと、「今更?」といった感じでしょうが、最近、鳥山明氏の絵の描き方について、以前とは違う見方が出来るようになってきたようで、デザインや絵について面白いものを探すことにハマっているという感じです。

ドラゴンボールは、今となっては「バトル漫画の時代を作った作品」と見なされており、戦闘力の数値化やインフレ、強敵が仲間になっていく流れなど、後の少年誌バトル漫画によくある要素を広く普及させた作品といった定評があると思います。ある種、「現代のバトル漫画のオーソドックスが詰まっている」と見られている部分もあるでしょう。

恐らく、その見方は正しいのでしょうが、ドラゴンボールを大人になって読んでみると、意外とオーソドックスから離れた部分が見つかったりします。もしかしたら、作者の鳥山明氏が意図的にオーソドックスから外した部分もあるのではと感じます。そういった事に注目して読んでみると、これが中々面白いのです。


ピッコロ大魔王のデザインについて考えてみます。ピッコロ大魔王と言えば、悟空少年期における、最大の敵ですね。青年期以降のドラゴンボールがバトル物にシフトしていくことを考えると、冒険物としてのドラゴンボールにおけるラスボスと言える立ち位置のキャラです。

さて、「冒険少年である悟空が、その少年期の冒険の締めくくりとして戦う最大の敵、しかも『大魔王』」…普通に考えるとどんなデザインにするでしょうか?恐らく、9割以上の人は、いかにも悪魔らしい、牛やヤギのような威圧的な角をデザインに盛り込むのではないかと思います。しかし、ご存知のとおり、ピッコロ大魔王には、角がありません。あるのはひょろっと生えたような触角だけ…いかにも魔王然とした感じとは程遠い、丸いシルエットの頭です。

この辺りに、私は鳥山明氏らしい、意表を突いたキャラデザの魅力を感じます。ある程度意図的に、非オーソドックスなキャラデザをしたのではないかとも感じます。もしかしたら、牛魔王とデザインがかぶらないようにしたりとか、もしくはドラゴンボールへの影響の大きかったであろうカンフー映画の敵役のイメージがあったといった事もあったかも知れません。ただ、もし意識的でなくても、鳥山明氏の感覚は、「非オーソドックス」が染み付いていたのではないかなあと思うのです。


ピッコロ大魔王以外にも、そういったデザインはあります。ブウ編で登場した、暗黒魔界の王ダーブラです。「暗黒魔界の王」ですので、やはりイメージとしては普通は、大きな角が威圧的なキャラデザをしそうな所です。実際、ダーブラには角が生えているのですが、デザイン的にはオーソドックスとはいえません。その角は親指の半分程度の大きさで、大きく尖った耳や大きなアゴの方が目を引くようなデザインになっているのです。角を付けないのならまだしも、わざわざそんなこじんまりとした角を付けている辺り、かなり意図的に非オーソドックスを狙ってデザインしたのではないでしょうか。


鳥山明氏はドラゴンボールを執筆する前には、国民的ブームを引き起こしたギャグ漫画『Dr.スランプ』を執筆していましたし、ドラゴンボールも、序盤はかなりコメディタッチでギャグ漫画に近い作品です。コメディやギャグは、意表を突いてナンボといった面があると思います。序盤のキャラでは、武術の達人で仙人である亀仙人は、肩書きに似合わずサングラス姿ですし、この辺りは半ばギャグとして、意表を突いたデザインをしている部分があったのだろうと思います。

その、デザインに意表を突く精神が、ちょくちょくシリアスなキャラクターにも表れていて、それがピッコロ大魔王の丸いシルエットだったり、ダーブラの小さな角だったりするのではないかと感じます。言わすと知れた名作ドラゴンボールは、そういった細かいところに注目すると、まだまだ色々面白い部分が見えてくるのではないでしょうか。

ストレッチはプロから指導してもらうのがおススメである

春ごろから、パートナーストレッチ専門店に月一ペースで通っています。以前より巷で時々話題になっている「Dr.ストレッチ」というお店です。トレーナーさんが、どこの筋肉が凝っているかをチェックして、ほぐしてくれたり、その人の凝っている部分に応じて、日常的にやるべき自主ストレッチについて教えてくれたりします。

ストレッチなんか自分でやれば良いと思いがちなのですが、トレーナーさんにやってもらうパートナーストレッチには、自分で行うストレッチでは中々得られないメリットがあると感じています。

ストレッチして貰っていると、思いがけない部分の筋肉が凝り固まっていると指摘されることがあります。自分でストレッチをしていても、その部分が凝っているとは微塵も思わなかった部分だったりして、驚きます。

何故自分で凝りに気付かないかというと、筋肉が凝り固まっていると神経が圧迫されて、感覚が麻痺するからなのだそうです。また、圧迫による神経の麻痺は冷え性の原因にもなるそうで、私自身、抱えていた下半身の冷え性がパートナーストレッチで段々解消されてきているのと同時に、以前よりも自主的なストレッチでの伸び感がはっきりと感じられるようになってきています。

伸び感を感じないと、そこをストレッチする意味があるようには感じられないので、その部分のストレッチをしなくなり、より凝り固まってしまいます。以前の私の体は、固まっているから感覚が薄くなり、そして、その部分のストレッチをしなくなり、より固まる、という悪循環になっていたのです。

パートナーストレッチのトレーナーさんは、多くの人の体を扱っているので、人体の構造上伸びない部分と伸びる部分をちゃんと弁えています。また、自分でのストレッチと違い、どの位の力が掛かっているかもはっきり分かるので、自主的なストレッチのように、無理やりやりすぎて腱を切ってしまうリスクもかなり低いと思います。

最近は、自分でストレッチをやっていた頃よりも着実に関節の稼動域が広がっていますし、神経の圧迫が減ると同時に体がスムーズに動くようになった為か、気持ちが落ち込むことも減ってきました。

ある程度コストは掛かりますが、やはりプロに見て貰うというのは大事なのだなあと思うのでした。

安定的な片付けの為の、こまめな清掃の役割

最近引越しをしたもので、部屋の片付けをしています。


私の部屋は何かと散らかっていることが多いです。私は部屋の片付けは苦手で、またかなり多趣味で何かと持ち物が多いこともあり、部屋が散らかりやすいのです。


そんな中、近年、片付けという大きな作業の中で、清掃という作業がかなり大事な事なのだと気づきました。


片付けという行為の役割としては、大きく分けて以下の4つが上げられると思います。

  • 「物の在り処や数量を理解できるようにする」
  • 「部屋の導線を最適化し移動や運搬をスムーズにする」
  • 「人から見られて恥ずかしくない状態にする」
  • 「空間を衛生的にして健康や持ち物の状態を害さないようにする」

ここで、清掃はやはり「衛生的にする」という部分に大きく寄与する行動なのですが、それだけでなく「理解できるようにする」という面においても、清掃がかなり大事なのだと思うようになったのです。


単純にいえば、埃にまみれたものは綺麗なものに比べ、一見、それが何であるかが分かりづらいのです。埃で表面が白っぽく見えて分かりづらいというだけでなく、埃にまみれたものは人間の目にゴミとして認識されてしまいがちです。埃にまみれているだけで、その物が必要なものであるかが分かりにくくなります。逆に言えば、「物が清潔である」ということは、その物が、どう処置するか考える対象であることの記号となるのです。


物が少なかったり、人間サイズの大きな物しかなければ、埃が物の認識を妨げる程度もたかが知れています。しかし基本的に、散らかった部屋というのは物も埃、あと小ゴミも多いものです。チリも積もれば山となるといった話で、埃がある所為で片付けが阻害されるという事は世の中かなり多いのではないでしょうか。特に、いわゆる発達障害などで、一度にたくさんの事に取り組んだり大量の物を認識する能力に乏しい脳を持つ人には、埃による認識ダメージは計り知れないでしょう。


私も片付けはまだ完了しておらず途中なのであまり偉そうなことは言えませんが、「片付けを進めて広いスペースが出来てから清掃する」という一見効率的な方法は、余程片付けに慣れた人でなければあまりやらない方が良いと思います。それより、「片付けながら物や空間を清掃で綺麗にしていく」という方法が、片付け力の乏しい人間には効果的なのです。


ついでに、「清掃により理解しやすくなる」だけではなく、清掃で見た目が綺麗になると片付けの達成感が増すという面もあると思います。そうなれば、片付けしながらの清掃は、一石二鳥なのではないでしょうか。