柿舞わす

このブログは、ひらう子のブログです。

「絵柄が古い」と言われた時の考え方について

「絵柄が古い」というのは、漫画・アニメのイラスト、中でも特に美少女系のイラストへの批評としてはよく聞く表現です。しかし、この表現、よく使われている割に、何を意図しているのかが分かりにくい言葉です。絵が古いと言われても、何をどうしたら良いのか、言われた方は分かりませんし、そもそも具体性が低いです。

私は、この「絵柄が古い」という言い回しについては、3通りの意味合いがあると思っています。それは、「現在流行している特徴を持っていない」という意味、「以前流行していた特長を持っている」という意味、「具体的に指摘しづらいが好みに合わない」という意味の三つです。


そもそも【絵柄の流行】とは一体何でしょうか。それについて、私は以下のような流れで絵柄の流行が起こると思っています。

まず始めに、一つの漫画・アニメ等の作品の流行が起こります。どんな作品にも絵柄の特徴というものがあり、絵柄の特徴というのは、魅力を含みながらも、人を遠ざける「アク」となり得る、諸刃の剣です。流行作品も、当然その「魅力」と「アク」とを持ち合わせています。

作品の読者の多くは、最初は絵柄の「アク」から作品をある程度敬遠するのですが、作品のストーリー等が面白かったり話題性があったりすれば、その「アク」をさほど気にせず受け入れます。そして、その流行作品を読んでいるうちに、作品の絵柄の特徴に慣れ、その絵柄の「アク」を「アク」と感じなくなります。その作品の絵柄特有の魅力だけに強く惹かれるようになるのです。

そのうち、その作品に似た絵柄の作品の「アク」も、受け入れるようになっていきます。そして、作り手の方も特徴の流行に対応したりという流れが出来ると、【絵柄の流行】が発生します。絵柄の流行は発生後、読者の目の慣れと共に、特徴自体が増幅し、傍から見ると「アク」と感じる面は時間経過と共に強くなります。

しかし、全ての人が、流行の「アク」を受け入れた訳ではありません。別の特徴の作品を待ちわびる事になります。そして、流行とは違うけれど魅力的な絵柄の作品が注目を浴び始めると、その作品を広め始めます。流行の絵柄の「魅力」にも、そのうち皆飽きが来はじめますので、次第に流行は別の絵柄に置き換わっていきます。そのうち、以前流行した絵柄の「アク」が目だって見えるようになり、以前の絵柄の流行は終焉に向かいます。


そのように考えると、先に言ったとおり、「絵柄が古い」は「現在流行している特徴を持っていない」、つまり【現在流行している絵柄の「魅力」を持っていない】という場合と、「以前流行していた特長を持っている」、つまり【既に流行が終焉した絵柄の「アク」が目につく】という場合に分かれます。勿論その両方の意味合いを含むのが基本だと思いますが、意味合いに2つの成分があると捉えると、言われた側としては分析しやすいと思います。

絵柄のアクというのも、ある種、時代的に作画技術が洗練されていない為に出ることもあります。洗練されていない事で、ある種荒削りな魅力が現れることもありますので、先に述べた流行発生の図式に全ての流行が当てはまる訳ではありません。ただ、二面性自体は意識しておくと分析しやすいことでしょう。

そして、もう一つ意味合いがあると言いました。「具体的に指摘しづらいが好みに合わない」という意味です。これは、批評者が具体的な表現で絵柄の欠点を説明できない場合に、とりあえず「絵柄が古い」という表現が用いられがちだということです。「絵柄が古い」というのは主観的な表現の割に、妙に説得力を持っているような雰囲気があり、ひとまず手ごろな表現として用いられやすいという事です。若干批判的な言い方をすれば、「絵柄が古い」と言っておけば、批評者は通ぶることが出来るのです。


当然ながら、絵柄の流行も、作品のジャンルや媒体によって同じ時代でもかなり違った様相を示すものです。そして、あくまで「絵柄の特徴」という定量的な観測のしづらい事柄に関することですので、先に述べた通り、主観的な意見でしかありません。

描き手としては、あくまで意見(しかも多くの場合、描き手ではない素人の意見)として受け止めつつも、どういった意図での表現なのか考える上では、絵柄の特徴に関する「魅力」と「アク」という二面性から捉えてみるのが良いのではないかと思っています。

絵が上手くなるには本当に「描きまくる」しかないのか

絵が上手くなりたい人は多いです。特に、アニメや漫画のファン界隈では、見るだけではなく自分でもイラストが描ける様になりたいという人がとても多いです。

ちょくちょく話題になる話なのですが、絵が上手くなりたい人が絵が上手い人に対して「どうやったら上手くなりますか?」と聞くと、「とにかく描きまくる」と返答するケースが多いといいます。しかし、この返答は、絵が上手くなりたい人からすると、あまり具体的な回答を得られた感じがしないものでしょう。それでは、実際、絵を描きまくる事で絵は上手くなるものなのでしょうか。


私の経験上、「とにかく描きまくる」というのは成長の上で確実に必要になります。私自身、絵に関しては得意分野と苦手分野の差が激しく、あまり自ら絵が上手いと公言するのははばかられるものの、少なくとも日本人を画力で並べ替えたときに上位数%に入るであろうという自信はあります。この段階に来るまでの私の経験から言えば、やはりある程度数をこなすことは絶対に必要ですし、今後さらに自在に絵を描けるようになる為にも、絵を描く回数は確実に必要になるであろうと考えています。

しかし、ただ闇雲に絵を描きまくっていて確実に絵が上手くなるかと言うと、かなり疑わしいと思っています。幼児期から没頭するように絵を描いている人のケースは別として*1、一定の年齢を越してから絵を習得する場合、「とにかく絵を描く」だけで「上手い絵描き」と言える領域に達するとは言いがたいです。ただ絵を描いているだけでは習得不可能な能力、もしくはそれだけでは矯正不可能な悪癖というものが誰しもある為、適切な指導なしに反復を重ねても、上達には限度があるのです。


闇雲な反復のみでは習得不可能な能力や悪癖と書きましたが、どういうことかと言いますと、人間は普段、さほど物をしっかりと見ておらず、訓練なしに描かれた絵には、認識違いや錯覚が色々と出てしまうのです。具体的な掘り下げは別の記事で行いたいと思いますが、ついつい斜めの線を手の動きやすい角度に傾けて描いてしまったり、全体をちゃんと見ずに細部だけ見てしまって、細かな狂いの積み重ねが全体のバランスを狂わせてしまったりといったことが誰しもあります。

きちんとした指導のもとで訓練すれば、絵の狂いを指摘して貰えますし、そのうち、自分の絵が狂っていることに気付く「観察力」が鍛えられていきます。ですので、多少お金が掛かっても、生徒の絵の狂いを指摘することの出来る指導のプロに教えを乞うのが一番効率的です。


それでは、何故絵の上手い人は「とにかく描きまくる」ようにアドバイスするのでしょうか。

これについては、自転車に例えると分かりやすいと思います。自転車に乗れる人が、一度も自転車に乗れたことの無い大人に対して、自転車練習の一言アドバイスをするなら、どんなアドバイスをするでしょうか。恐らくほとんどの人は、「勇気を出して何度も乗ってみる」というアドバイスをすることでしょう。その人が何故自転車に乗れないのかは、実際に自転車の練習をしているところを見なければ分かりません。もしその場を見てアドバイスするにしても、本当に効率的な上達を促せるような具体的な指導が出来る人は素人では稀でしょう。

つまり、画力の上げ方を問われた上手な人が、絵のアドバイスをしようにも、【指導相手が絵に関してどういう能力が欠けていてどういう悪癖があるか】が分からなければ、アドバイスのしようが無いのです。また、絵が上手い人だからといって、その人が他人の絵を見てその人の欠点を見つける能力を持っているとは限りません。絵が上手い人は、その人自身の絵の能力や欠点には向き合ってきていますが、他の人の絵の能力や欠点に向き合った経験はあまりありません。経験がない事をやってくれと言われても困りますし、それでもとりあえず何か言うよう乞われれば自らの成長過程の話をするしかありません。絵の上手い人が自身の絵の成長において印象に残っている行動は当然、掛けた時間の長い「絵を描く」という行動です。ですから「とにかく描きまくる」というアドバイスが自然と出てくるのです。


さて、そんな中で、実際に効率的に絵が上手くなりたい場合には結局どうすれば良いのでしょうか。

それは、適切な指導者に教えを請うことです。適切な指導者とは、「絵を描くのが上手い人」のことではありません。「絵を教えるのが上手い人」のことです。絵を教えるのが上手い人に教わるとはつまり、絵を指導する技能を持ち、出来ればその経験を何度も積んだ人に対して、適切な対価を払い指導してもらうということです。

生徒の弱点を見抜いて適切な指導を施すというのは、実は結構な労力や技術が必要なのです。日本は【絵を描く】という能力の社会的地位が非常に低い為に、絵の指導に対してお金を払う事に躊躇う人も多いと思いますが、明確な技術や労力が必要になる指導に対して、対価が必要になるのは自然なことです。「ちょっとしたアドバイスでいい」という人もいるとは思いますが、具体的な弱点の分からない人への「ちょっとしたアドバイス」といったら、それこそ「とにかく描きまくる」程度のアドバイスしか出てこないものなのです。

そういう条件で考えた場合、もっとも手軽なのはデッサン教室です。私がお世話になったデッサン教室は、美大に行く人の為の予備校の講師の方が、社会人向けに開いているものでした。予備校の講師となれば、多くの生徒に対して明確な成果を目指す指導を施した実績という面では、本当に理想的だと言えるでしょう。私は教室に通ったことで、絵に関する能力が全体的に大きく底上げされた実感があります。


近年は、絵描きの報酬が詐欺的に低いという話も良く聞きます。「絵を描く」という特殊技能が買い叩こうとする人の多さが、絵描きの界隈で社会問題として扱われているのです。

絵を描く能力は特殊技能です。そして、絵を指導する能力というのは、絵を描く能力とはまた別の特殊技能です。絵描きの買い叩きが問題だと叫ばれる世の中、絵を教えてもらうという事にも、より適切な対価と敬意が払われる世の中になることを願ってやみません。

*1:言語学習や音楽教育に関して、3歳までの訓練とそれ以降の訓練とでは技能の習得過程に大きな差があると言う話をよく聞きます。画力に関しても同様に、幼少期とそれ以降とで訓練の効果に大きな乖離が存在するのではないかと私は思っています。

電車で席を譲らない時の心構え―快適さはタダでは確保できない

満員電車は辛いです。席の取り合いも辛いですし、席に座っている時も、譲らなければいけないのではとヤキモキし始めると、それがまた辛いです。

そんな満員電車ですが、席を譲らず座り続けるにあたって、無為に気を揉む事を避ける為の、若干経済学よりの話を書きます。


私は基本的に、満員電車で席を譲る事がほとんどありません。私はどうやら満員電車で人よりも体力を消耗してしまうようで、満員電車で立っているのが非常に辛いのです。具合が悪くなってから譲ってもらう位なら、空いている席には出来るだけ遠慮なく座る事にしています。そして、急病などで席をどうしても必要とする人が車内にいる時は別として、基本的には席は譲りません。

しかし、電車というのは「譲り合ってお掛けください」等とアナウンスがある通り、席を譲らないと中々居心地が悪い空気があります。席を譲らないと、まるで良心が欠如しているかのような視点を周囲から向けられそうで、席を取りづらいという人も多いことだと思います。


明らかに席が足りない状況で営業しているのは鉄道会社側ですので、鉄道会社が顧客に対して譲り合うよう訴えかけるのは若干無理があると、私自身は思っています。席が足りないならば、客に訴えかける前に席を増やす為の営業努力を行うべきです。とはいえ、満員電車に関して鉄道会社を責めても仕方がありません。鉄道会社は、そうそう簡単に運賃を上げられない中で、社員に給料を出せる分の儲けを出しながら、事故が起きないように営業を行っている訳です。鉄道会社がやむを得ず「良心」に訴えかける形で何とかしようとするのは自然な流れでしょう。

ただ、鉄道会社に事情があるのと同様、席を譲らない人には席を譲らない人の事情があります。席を譲らないこと自体は、誰かに責められるべき道義上の問題ではありません。あくまで、周囲からの視点の問題という事になります。


さて、席を譲らない事が経済に及ぼす影響を、少し広い視点で考えてみます。誰か一人が席に座ると、その後電車に乗り込む人は、座れる可能性が減ります。すると、その車両に乗り込む人たちにとって、その車両に乗り込んで得られる快適さの期待値は低下することになります。

車両に乗り込んで得られる快適さが低下する、つまり、車両が不快なものになると、どういったことが起こるでしょうか。その時、例えばもし、満員電車の急行列車よりも、普通列車の方が人に揉まれずに移動できるなら、敢えて普通電車を使う人が増えます。時間を少し掛ける代わりに、満員電車の不快を避けるという選択です。

例えばもし、別の路線が並行に走っていて、そちらの路線が比較的運賃が高い分混雑が少ないならば、空いている路線を選ぶ人が出てくることでしょう。その人は、運賃の差額を使って、確実な快適性を買ったと言えます。例えばもし、同じ経路をタクシーで行けるならばどうでしょう。その場合も、電車からタクシーに切り替える人が出てくる可能性が生まれます。電車移動をタクシーに切り替える差額で、席に確実に座って移動できる快適さを買っているのです。恐らく、電車同士の切り替えよりも、タクシーに切り替える方が、差額は大きいと思います。ただ、移動時の快適さに払える額も人によって違いますので、快適さの為にタクシーの差額を払う金銭的余裕のある人は、タクシーに乗る方が選ぶことでしょう。


そのようにして、別の路線を選ぶケースが増えると、お金持ちや時間の余裕のある人等、他の選択子をとりやすい人ほど満員電車以外を選択するということになります。結果、満員電車は若干緩和のされます。勿論、元々満員電車だった列車が他の交通手段よりも空くという事はそうそう起こりませんが、元々の不快さよりはましになる事でしょう。つまり、一人が席に座っることで、一時的にその車両が不快になっても、長期的視点で見れば、乗客各々が手段を選択する為、乗客全体の不快さの増加は緩衝されるという事になります。

それどころか、席を譲るかどうか迷う乗客の心労が減ることになれば、むしろ、席に座ることが全体の不快さを引き下げてしまう事すらあり得ます。さらに言えば、席に座ることが、僅かながら「満員電車という社会問題」の重大性を強め、交通に関する学術の発達を促し、最終的な解決の一助になる事もあり得ます。

その様に考えると、席を譲らないことが、社会の為になるという考え方も出来るのです。


勿論こんなのはあくまで理屈上の話で、人間どう動くか等は完璧に測れるものではなく、確実に正しい論理だとは言えません。

ただ、席を譲らるスタンスの人がいる以上、席を譲らないスタンスの人もいるというのは自然なことです。席を譲る人は、ある意味、優しくて余裕のある人だと言えると思います。しかし、席を譲らないスタンスでなければ本当に致命的に辛いという人は一定数います。そういう人は、自分が席を譲らないスタンスを取る事にやきもきするよりは、「座ることが社会の役に立つかもしれない」と思うのが良いのではないかと思います。


周囲からどんな目を向けられようと、「ある面では自分は良いことをしているのだ」と思えば、無駄に気を揉む事も減るのではないでしょうか。

歴史の勉強にはアンサイクロペディアが活用できる

アンサイクロペディアと言えば、Wikipediaのパロディサイトで、面白おかしく作られた冗談記事のWiki百科事典として知られています。まあ大方はせいぜい暇つぶしに読むようなWebサイトなのですが、大学受験の際、このサイトが歴史の勉強で結構役に立ちました。

歴史の勉強は、一つの事柄を色々な方面から捉えて知識を蓄えていくのが効率がよいです。一つの事柄、例えば年号のみで歴史事件を覚えようとしてもそうそう長く記憶に定着しないものです。しかし、他の歴史事件との関連性や、事件当時の産業の流れや思想・文化等、色々な方面から捉えるようにすると、記憶としては中々抜けにくくなります。特に、覚えておくと楽になるのは、関わる人物のことです。歴史人物の人生を追う歴史ドラマ等を見ると、その中で出てきた事件などはとても印象強く記憶に残ったりします。

しかし、人物を追うのが理想と言っても、試験科目としての歴史は、かなり多くの歴史人物を追わなければ収集がつきません。全ての歴史人物に対して丁度良い創作物が存在するわけではありませんし、大量の人物について例えば映像作品や歴史小説で一人ひとり学んでいくというのはかなり手間です。


そこで、アンサイクロペディアを読みます。

アンサイクロペディアは、歴史の教科書に載っている歴史人物の中でも、歴史小説で主人公にならないようなマイナーな人物にもある程度記事があります。そして、人物の人間性のような客観性に欠けた事柄はWikipediaには載らないものですが、冗談百科事典だけに、、その人物が歴史事件に臨んだ際にどう感じていたか等が、冗談ではありますが書かれています。冗談とはいえ、実際に起こった事を基にしたユーモアとして描かれていますので丸っきり嘘ということもありません。

また、アンサイクロペディアなら、一人の人物の記事を丸ごと読んでもさほど時間は掛かりません。長くてもせいぜい一人10分以内でしょう。歴史小説を何本も読むことを考えると、時間効率はかなり良いです。関連人物を辿っていけば、色々な人物同士の関連性や共通点が頭に入りますので、気軽に読んで回るだけでも歴史人物に関する勘が磨かれます。


ちゃんとした歴史教科書の内容と照らし合わせて読むとかなり面白くかつ効率的に歴史を勉強できると思っています。歴史の堅苦しい教科書をずっと読んでいると飽きますし、気分転換としても、アンサイクロペディアでへらへら笑いながら歴史を漁るのは有効だと思います。勿論、歴史教科書なしにアンサイクロペディアだけを丸覚えしていてはいけませんが…というかムチャクチャ過ぎて多分覚え切れませんが…歴史教科書で流れを追いつつ、アンサイクロペディアでめぼしい人物についての印象を深めて、再度ちゃんとした歴史を覚えなおすという感じでやっていくのが有効だと思います。


(本筋とはあまり関係ありませんが、アンサイクロペディアには、「ハンス・ウルリッヒ・ルーデル」のような、人物として面白すぎて、大して嘘が書かれていない記事などもあります。そういったものも含めて読むと、それも楽しみが増すと思います)

不便を避けた筈がかなり損をしていた、私のTwitter利用パターンについて

私は何かと凝り性な方ですので、自分が何か不便を感じると、不便を取り除く方法を調べてより便利な選択をしようとする傾向が高いです。それ自体は良いことなのですが、不便を無くしたばかりに損をする事が結構あるように感じます。最近それを、Twitterの利用に関して痛感する事がありました。

私はTwitterでタイムラインを見る時、Twitter公式アプリや公式Webをあまり使いません。Twitter公式系の媒体を利用するのは、通知確認や、個別のツイートの詳細確認、あとは細かい検索くらいです。タイムラインを見る際には、第三者の公開しているクライアントを利用することが多いです。Twitter公式媒体はタイムラインが見づらく、特に画像のサムネイルがかなり激しくトリミングされることが多いので、どうも使いにくいのです。

非公式クライアントの使用によって、Twitterを閲覧する上では、公式系媒体を使うよりも便利に利用できていると思います。自分の使用用途に合ったクライアントを利用しているのですから、ある意味当然です。

しかし、最近気づいたのですが、そういった非公式クライアントを利用している人は少数派なのです。ということは、私が認識している「Twitterのタイムライン」と、大勢のTwitterユーザが認識している「Twitterのタイムライン」にはかなり乖離があります。そこに乖離があるという事はつまり、自分のTwitterアカウントでの発言が他人にどう見えているかの認識が正しく出来ていないということです。

私はイラストをTwitterでよく掲載しているのですが、実は、自分が想定しているよりもどうも反応が悪いということがかなりあります。時間帯の問題なのか、それとも内容の問題なのかと考えてみても、いまいちピンと来ません。ところが、「多くの人がTwitterを公式系の媒体で利用している」というのを前提に、公式アプリで自分のタイムラインを見てみると、先述の画像サムネイルのトリミングによって、自分の想定と自分のツイートの見栄えにかなりの差がある事に気が付きました。

自分の画像ツイートのうち、想定より反応が悪かったものは概ね、トリミングで見栄えが悪くなっていることが多かったです。また、私はモノクロ線画のみのイラストをアップすることが多いのですが、カラーイラストに比べ、モノクロ線画は切り取られ方によって、どんなキャラが描かれているのかが分からなくなることが多いです。私をよく知っている人ならまだしも、私を知らない人が、誰が描かれているか分からない私の絵のサムネイルを見て、反応をくれるとはそうそう考えられません。

そんな訳で、私は便利にTwitterをやることを選択したばかりに、かなり長い間、Twitterでの投稿で反応を貰いにくい形のイラストばかり掲載していました。便利さを求めて損をしていたのです。勿論便利な選択をすることは大事なのですが、もう少し「一般解」と言えるものに関心を持たないとダメだなあと思ったのでした。

洋裁は、じっくりちゃんとやる事の大切さを学べる

洋裁を始めてそろそろ2年経ちます。最初は帽子とシャツから始めて、コスプレ衣装を累計7着作ってきたのですが、段々と自分の物事の進め方に悪い癖がある事が分かってきています。最近は、意識的にそれを修正しようとしている所です。

その悪い癖は、何かと物事の前工程を軽んじて雑に済ませてしまう所です。物事を進める上で一番「やりがいのある」部分以外をないがしろにしがちなのです。


洋裁の工程は、型紙を作り、それを縫い代を含めて布に写し書きして、それから接着芯等をつけつつ布を裁断して、やっとミシンで縫っていくという形で進みます。型紙は、自分で引いたりデータを印刷したり本をコピーしたりして作りますが、コスプレ衣装の場合は、ある程度改造を行うので自分で手を加える部分が多いです。

私が洋裁で一番楽しくやりがいがあるのは、ミシンで縫っていく工程です。実際に部品から完成物へと組み上げていく訳ですから、そこが一番面白いです。単純に私が、メカとしてのミシンが好きということもあります。逆に、その前の、型紙を写したり裁断したりという工程は面倒に感じることが多いです。


でまあ、私は洋裁始めたころ、その悪い癖が出まくりでして、型紙を写していく工程を雑に済ませてしまっておりました。特に、縫い代の幅をきっちり計るというのは、特に曲線部分などがかなり面倒なので、かなりガタガタのまま済ませてしまう事が多かったです。縫い代なんて、ほつれを防ぐことが出来れば良いと思っていたので、多少ずれても構わないと思っていたんです。

ただ、その悪影響はミシンで縫っていく工程で現れるものでして、要は縫い代の幅がある程度揃っていないとミシンで縫う工程で布運びがしづらいのです。その結果、序盤の面倒な作業をないがしろにした所為で、後半の作業が楽しめないという状況になっていました。


最近はその傾向にある自分に気付いて、裁断までの工程を出来るだけきっちりとやることにしています。きっちりとした工程を踏むと、後々で心配が少なく気持ちの負担も少ないです。それに、前工程を雑にやって目先の時間を節約するより、前工程を丁寧にやる事で前工程の技術を上げれば、技術に応じて前工程に掛かる時間も短縮されていきますので、長い目で見れば早く正確に物を作れるようになっていく筈なのです。

その辺りをちゃんとしようと心がけた結果、漫画の作画やら、部屋の片づけやらで、以前よりも物事をきっちりと進められるようになってきました。そんな訳で、これからも面倒な工程ほどちゃんとやるという事を心がけたく思っています。


ついでにこの話を広げると、前工程を雑にやって目先の時間を節約するというのは私の癖な訳ですが、こういう癖を持った人は世の中結構多いように感じます。特にITの開発系の仕事では、設計部分での雑な作業が後々の仕様変更を生んでてんやわんやになるという話をそこかしこで聞きます。ものづくりは、作業の流れを決める全体の管理者が、きっちりした工程を踏む意識を持つことが大事なのだろうなあと思い入る所です。まあ、その為に洋裁を勧めようという訳ではありませんが…。


ちなみに、世の中には、きっちりとした洋裁をやる為の便利な道具は結構たくさんあります。中には、近年になって普及したものもあるようです。特にカーブ定規や、水で消えるチャコペン等はかなり便利です。そのうちそういった事も記事にするかも知れません。

明るく生きるべく、ちょっと簿記でも取ってみようかと

簿記を取ろうかと考え中です。日商簿記の2級です。

私は何かと夢想家でして、私が漫画を描くのも、自分が妄想した事を形にしてみたいという欲求が一つの原動力です。そして、「こういうビジネスが出来たらなあ」といった、商売のアイデアを考えるのも好きなのです。それが理由で、二回大学に行った内二つ目の大学では、経済学や経営学が専門分野でした。今も、ビジネスとして動かしてみたいアイデアが、私の頭の中にはたくさんあります。(IT系のアイデアが多いです)

それで何故簿記か言う話ですが、単純にビジネスをやる人間としての信用度が上がると思ったからです。簿記というと、金融関係の仕事に就くとか、納税を正しく行う知識を身に着ける為の資格というイメージがあったのですが、それ以外にも、一人の経済人として信用が置けるかどうかの指標にもある程度なるのではないかなあと思ったのです。平たく言えば、自分が金持ちで誰かの新規事業に融資を行うなら、金銭管理の資格である簿記を持っている人が創業メンバーに居るなら、何となく安心感が違ってくるなあという話です。

ちなみに簿記を取ると言っても、単純に金銭管理の知識の証明としては3級でも構わないのですが、私は大学で簿記に関する基礎は習っていますので、2級くらいは狙わないとちょっと気持ちが燃えないのです。

勿論、簿記持ってりゃ信用が上がるというのはあくまで私の予想ですし、別にすぐに何か事業を始める為の融資が必要な訳ではないのですが、ひとまず前向きな理由がついてくれば楽しく勉強も出来ることでしょう。申し込み締め切りは1月ですので、今のうちは少し検討しつつざっと復習から始めようと思っています。しばらくは、生活に張り合いを得て明るく生きるという目的で、資格勉強をするという選択も良いなあと思っているのです。