柿舞わす

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中二病は「型外れの予行演習」かも知れない

中二病という言葉は、もう世間に普及して久しいです。普及が進む過程で意味合いの変化もあったとは思いますが、基本的には、中学二年生位の年頃の少年少女が、自らの特別性に関して様々な夢想を巡らせて、それが言動の端々に表れるような現象を指します。また、中学二年生頃によくあるというだけで、それ以外の年頃の人でも、同じような思考のもとで「イタい」言動が現れていれば、それもまた中二病と言われる事が多いです。

私自身も、「年齢的に特にこの時期に」と時期をはっきり特定はし辛いものの、世に言われる中二病的な思考を少なからず持っていた時期がありました。といっても、いわゆる「魔術書」を作ったりといったものではないので、世間一般にもてはやされるような「イタさ」のものではありませんでしたが。

ひとまず中二病的思考というと、まず自らに隠れた特別な力があるという夢想と、自らがその特殊性により周囲の人間に馴染めないという認識とで織り成されるものと言って良いと思います。この思考がどうやって生ずるのか考えてみようと思います。


中二病的思考の起こりについて私は、「周囲に馴染めないという認識」が先に発生して、その上で「自らに隠れた特別な能力を夢想する」という夢が起こるのではないかと思っています。「隠れた特別な力」とはつまり、【周囲から評価される機会や行使する機会が得られない能力】の事です。「隠れた特別な力」が隠れたものであるのは、周囲より与えられる機会に問題があるという事です。自身にとっての自身の能力や性質に、周囲から認識される自身のそれと、ギャップがあるという状態です。よって、「隠れた特別な能力」への夢想は、つまり「周囲に馴染めない」事に起因すると言って良いと思います。また、単純に、周囲に馴染めていれば、自身の能力について、「隠れた特別なもの」であることを期待する必要がないだろうという面もあります。


さて、この「周囲に馴染めない」という認識なのですが、ここでいう周囲というのは、多くの場合は家庭と学校での周囲です。その中でも、特に周囲とのギャップを感じやすいのは学校でしょう。家庭というのはそれぞれ、母親、父親、子供でも兄姉、弟妹というように、一人ひとりの役割や立場が違う環境です。しかし、生徒にとって学校というのは、同じ「生徒」という立場の人間が大勢います。自らの周囲とのギャップは明らかに学校で感じることが多いはずです。


そう考えてみると、中二病は、周囲とのギャップを感じた少年少女が、「周りと浮くこと」自体を試してみる為の行動なのではないかと思えるのです。学校というのは何かと、生徒を型にはめる指導が行われがちです。更に言うと、皆が将来「平凡なサラリーマンや主婦」といった、その時代その地域の「平均的な生き方」をする事を前提にした指導です。その中で周囲とのギャップを感じた少年少女は、「平均的な生き方」が自分に合わない事に、将来への危惧を抱く事でしょう。その時、それ以外の生き方について想像する事になります。そして自分の環境から大きく離れた所に、現状への不満の反動として、「隠れた特別な能力」というポジティブな夢想を行うのです。


その点で、私自身は、中二病的というものを何かと肯定的に捉えています。これは、画一的に生徒を型にはめる指導を行いがちな現代の学校教育への反感によるものでもあります。そして同時に、中二病という現象を、「当人なりの特殊な生き方のシミュレーション」として見ると、生物として積極的に、自分の生き方を試しているように感じるのです。

戦後の日本社会は国民の勤勉さで国際社会をリードしてきましたが、これからはそうは行きません。変化を求めず勤勉に働くだけでは、大きく変わり行く国際経済の流れについていけなくなる事でしょう。今後、日本が突入していくであろう「画一的なだけでは生き残れない社会」においては、様々なギャップと向き合う姿勢が肝要になります。その点では、中二病を好意的に捉えるような視点が広がっていけばと思っています。