柿舞わす

このブログは、ひらう子のブログです。

貯蓄のある人の「ぜいたく不足」は運動不足と同じくらい危険だと思う

久々の記事です。何を書いたものか迷いましたが今回は経済寄りのテーマで…。


バブルがはじけてから日本はずっと不況に見舞われています。今の若者のほとんどは、好景気というものをろくに知りません。そして、景気回復が出来ていないどころか、不況の度合いはますます酷くなっていっているという様相です。

日本の長引く不況の原因についての原因を挙げていくと、海外の安い労働力が日本人の仕事を多方面から奪っていることや、日本の企業が組織として大きくなりすぎたが為に全体的に腰が重くなってしまったことなど、色々な要因を挙げる人がいるとは思います。

その中でも、壮年~高齢者層が収入の多くを貯蓄に回してしまい、経済が回らなくなって格差がどんどん大きくなっているというのは、多くの人が指摘する要因だと思います。


実際に、総務省統計局の【家計調査報告(貯蓄・負債編)】から、世帯主の年齢階級別貯蓄・負債現在高の推移を見てみると、若年層の貧困化がはっきりと見えてきます。40歳未満の純貯蓄額は2007年で-183万円ですが、2016年で-524万円と、かなり酷くなっています。明らかに若い世代が貧乏になっていっているのがよく分かります。50歳以上の年代の貯蓄額は大きく変わっていませんので、少子高齢化を鑑みても、高齢者世代の貯蓄により経済が停滞しているという指摘は、充分に合理的な意見だと思います
(勿論高齢者同士の格差も広がっているという一面はありますので、高齢者の全員が貯蓄で経済を停滞させているということは出来ませんが…)
統計局ホームページ/家計調査報告(貯蓄・負債編)−平成28年(2016年)平均結果速報−(二人以上の世帯)

そんな訳で、近年、ネットで若年層による「高齢者の節約」を非難する意見を見ることが多くなりました。年代による経済格差がこれから更に拡大すれば、高齢者に批判的な意見が更に増えるであろう事が推測されます。


さて、それでは、ある程度資産のある高齢者に「金を使え」と言ったとして、それで使うかというと、恐らくそう簡単にはいかないでしょう。貯蓄をする高齢者というのは、全体的に経済が停滞している中、お金を使うという事に不安を感じている人が多い筈です。ある程度お金があっても、「ぜいたく」は不安なものです。お金を使うことが社会の為になるといっても、それで自身が不安になるのであれば、中々積極的にお金を使う人はいないと思います。


ただ、本当に「ぜいたくをしない」という事は安全なのでしょうか。私は、むしろ「ぜいたくをしない」というのはかなり危険なことだと思うのです


ぜいたくをするという行為について少し考えてみます。ぜいたくをするというのは、つまり、自分の好きなことにお金を使うということです。好きなことにお金を使うことは、同じものを好きな人との出会いを生みます。また、例えば洋服にお金を使うなら洋服屋や仕立て屋、といったように、その「好きなこと」を支える人たちにお金を回すことになります。そこでも人との出会いが生まれます。

人間は、人との出会いが少なくなると、色々な意味で不安定になります。精神的にも落ち込むことが多くなりますし、考え方が凝り固まったり、偏った情報源からの情報を不用意に信じ込んでしまったりという事にも繋がります。また、人と出会う機会が減ると、新たに出会った人が良い人か悪い人かを判別する勘が鈍っていきます

「独居老人が詐欺に遭う」という話はよく聞きます。人は、人とのふれあいや出会いが足りなくなると、ちょっとした事で騙されやすくなるのです。ある意味構図としては、運動不足と同じです。普段から運動して体に刺激を与えている人に比べて運動不足の人がちょっとしたことで体調を崩してしまうと同じで、人との交流が停滞している人はちょっとした事で詐欺に遭うようになりますし、詐欺師を見抜く力も衰えます。

そして、少し世知辛い言い方にはなりますが、人との良質な出会いを増やすには、ある程度お金を使うしかないのです。特に貯蓄のある人というのは詐欺師にも狙われやすいので、人との出会いを増やすべく、自分の好きなことへの投資は積極的に行うべきなのです。


この、ぜいたくをする事で犯罪から身を守るという考え方には、人との出会いを増やすという観点だけでなく、もう一つの側面があります。それは、ぜいたくにより、金額の大きさに対する直感を磨くという観点です。

平たく言えば、20万円の買い物をよくする人は、ほとんどしない人に比べて、20万円というのがどの位の額かよく分かっているということです。例えばカメラに普段からお金を使っている人なら、「20万円あれば○○のカメラのレンズが買えて、こんな写真が撮れるようになるなあ」といった想像が出来ます。そうなると、100万円という額も、20万円の5倍という事で、ある程度想像する手がかりが出来ます。

しかし、普段10万円単位の買い物をする事がない人は、100万円といわれてもどのくらいの事が出来る金額なのかが分かりません。そういう人は、例えば、ふと安価な壷を100万円で売りつける霊感商法の詐欺師に「100万円なんて大した額ではないです」といった事を言われた際に、金額の大きさからそれを拒否するという事が難しくなります。普段お金を使わないと、金銭感覚を相手に誘導されてしまいやすくなり、詐欺をシャットアウトする事が出来なくなります


詐欺に遭うという事は、貯めた資産を失うということに留まりません。自身や身内が更なる犯罪に巻き込まれたり、場合によってはそのまま脅迫に遭って自らが犯罪に加担する事になる可能性すらあります。そういったことを考えていくと、お金があるのにろくに使わないというのは、非常に危険なことと言えるでしょう。少しずつでも良いので、適度なぜいたくをして、人との出会いを増やしたり、金銭的な勘を磨いていく事が、自らの安全を守ることに繋がるのです

近年の年代による経済格差の拡大は、「老人が自分の為だけ考えて蓄財をする事が、社会に害をなしている」という構図で攻撃的に語られる事が多いです。しかし、一つの考え方として、高齢者が自分の為と思ってやっている貯蓄は、寧ろ複数の意味で、破滅的な危険を呼び寄せてしまう」という見方も出来ると思い、このブログ記事にしたためてみたのでした。

日本で一泊200万円の伝統木造建築ホテルを作るロマン

さて軽く夢物語でも語ってみます。あまり深い考証のもとでの話でもありませんが、こんな事が出来たら面白いだろうなあといった感じで…。


近年、日本の観光産業が脚光を浴びています。一般の家庭に旅行者を有料でホームステイ出来るようにする『民泊制度』なるものが話題になるのも、その一例と言えます。日本は自動車産業や造船産業など、輸出産業で発展した国ですので、海外相手の骨太な商売が出来れば、落ち込んだ日本経済にとっては大きな希望といえるでしょう。

しかし、現状日本の観光産業の課題として、日本には超富裕層をターゲットとした、いわゆる五つ星ホテルが少ないということがよく挙げられます。超富裕層が日本に来ても、彼らが望むような宿泊施設が無いのです。現状政府が主導しているような、中国や東南アジアの旅行者を対象とした貧困層中流層相手の観光産業計画は、旅行者のマナーが悪くて地元民との衝突が起こるなど問題が発生しやすく、どうにも「日本向き」とは言えません。私は、日本の観光産業はもっと、超富裕層、つまりは「アラブの石油王」のような人たちを相手にすべきと思っています。ヨーロッパ等にあるような、一泊で100万円単位のお金が動くような宿泊施設が日本にもっと必要です。


さて、そういった超高級ホテルを作るのであれば、私は、伝統的木造建築の温泉旅館を作ってみてはどうかと考えています。平たく言えば、「現代人の生活感覚でも居心地がよい、コンシェルジュ付きの桂離宮、もしくは聚楽第」です。作るとしたら、恐らく和歌山県辺りでしょうか。


私自身は海外の超富裕層ではありませんし、どちらかというと、私の経済状態は、中流階級よりも下というレベルです。ですので、肌感覚で超富裕層の望む旅行形態は理解していません。ですが、ネットなどで海外の超高級ホテルについて見てみた限りでは、そういったホテルというのは、宿泊施設というよりは、「宮殿」です。超富裕層にとって、そういったホテルはどうやら、単に泊まらせて貰う場所ではないのです。自分の為の宮殿が海外にあるのが理想ではあるけれど、建てるには時間とコストが掛かりすぎるので、ホテルに泊まる。なので、自分の宮殿のように寛げるのが理想なのです。

そういった感覚の超富裕層は、いわば「宿泊客」という扱いをされる事を望んでいません。言ってしまえば、そのホテルで正規料金を払っている間は、「他所からいらした王様」として振舞いたいのです。

日本の中産階級は、国内旅行に行ったら、伝統的なお寺や神社、貴族階級の利用していた建築物を見物します。しかし、「王様」は、見物で満足するわけがありません。建築物の、期間限定の主として、その場に滞在し、寛ぎたがることでしょう。

勿論、現実に文化財に宿泊するのは、文化財保存の観点からすると難しいですし、恐らく現代人にとって、文化遺産というのは宿泊してもあまり居心地が良くありません。

であれば、作るべきです。


ちょうど、今は様々な伝統的な職人が、仕事が足りず存亡の危機にあります。そういった人達に依頼し、漆が必要な所には国産漆、金箔が必要な所には金箔です。100年経ったら文化財として扱われてもおかしくないレベルの建造物を新築します。建て替えで常に築20年以内を保っている伊勢神宮に近い感覚です。恐らく、そういった新築伝統建築物を作ることは、若い職人の技術蓄積にも繋がりますので、今後の文化財修復にとってもプラスとなる事でしょう。


旅館内にはコンセルジュが常駐します。旅館内には自販機はありません。部屋で飲み物が必要になれば、常駐コンセルジュを呼べば、迅速に飲み物を運んできます。近くに観光に行きたければ、伝統や文化の知識の豊富なコンセルジュが付き添い、観光先で「お客様」が知りたいことがあれば、コンセルジュの知識内のことであればコンセルジュが回答し、知識の範囲外のことであれば、旅館と契約している学者等に問い合わせて解説します。

コンセルジュは日本人が良いでしょうが、場合によってはマネージャーは海外の人材の方が良いかもしれません。ベトナムハノイなどは、フランス領時代にフランス人の避暑地として高級宿泊施設が作られていたということもありますので、ベトナム戦争での傷跡があるとはいえ、その辺りには、富裕層の接待ノウハウのある人材がいるのではないかと思います。あまり確証はありませんので、別にハノイからつれてくるべきという事はありませんが、富裕層を普段相手にしていない日本人だけでやるより、海外の人を呼ぶべきでしょう。


先にも述べましたが、場所は和歌山県が良いと思っています。プライベートジェットで関空などに到着した富裕層を、貸切フェリーで出迎え、旅館まで直行します。京都や有馬のように規制が多いところでは新築の高級建築物を作る場所が取りづらいですし、京都は喧騒が多すぎます。温泉もあり、比較的温暖で、海の幸も山の幸も豊富、海岸があり、那智の滝や熊野など、見所が多い県です。


さて、ここまで話を組み立てたのですが、実のところ私には、建築や運営に幾ら掛かるのか試算の手立てがありません。恐らく、一泊200万円で、一組で4人程度、一週間の滞在と考えると、2,000,000×4×7=56,000,000という事で、一週間で5600万円。宿泊が5組として7割利用と考えると、年間売り上げが100億円強となります。東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランドの年間売上が2000億円強に対して有形固定資産が4600億円であることを考えると、ホテルの土地と建築コストは150億円程度掛けられるのでしょうか。初期段階で200億円の資産は集めておくべきなのでしょう。この辺りのコスト感覚は私にはありませんので何ともいえませんが。


肝心の数字の部分がかなりふわふわしているものの、案としては夢があり、我ながら面白いと思っています。私自身でいきなり始められる話ではないのでブログ記事にしてみました。中々ロマンのある話ではないでしょうか?

ジャンルの人気度はコミケのスペース数では計りにくい

今年の冬コミコミケット93の当落が先日発表されました。大体この時期になると話題になるのが、各ジャンルの盛衰の話題です。このジャンルは以前よりもスペース数が減ったから衰退しているとか、このジャンルはスペース数が増えたから盛り上がっているという具合です。

実際、今年の冬コミでは艦これジャンルが減少して、型月ジャンルが大きくスペース数を増やしています。艦これの衰退が叫ばれる事も多いことでしょう。コミケのスペース数は、特に二次創作において、ジャンルの盛衰を示す指標として扱われることがとても多いです。

しかし実際のところ、コミケのスペース数がその時点でのジャンルの盛衰を表すかというと私は疑問です。スペース数という指標はかなり誤差の大きい指標だと私は思っています。

理由は3つあります。


一つ目の理由は、サークル参加は原則1サークルで1ジャンルを扱うのに対し、一般参加は概ね複数のジャンルを回るという事です。サークル参加者は、その時に一番作品を出したいジャンルに申し込みますが、本を買う一般参加者は、複数のジャンルの作品を買うのは当たり前です。

例えば仮に、サークル参加者は一番好きなジャンルに申し込み、一般参加者は一番目から三番目に好きなジャンルの本を買うとします。すると、多くの人が一番目ではなく二番目や三番目として好むジャンルは、スペース数が少なくても購入者の盛り上がりは十分あるという事になります。寧ろ、供給が少なく需要が多いことになり、頒布作品の平均的な注目度は寧ろ上がるケースもあり得ることでしょう。二次創作のジャンル人気は流行に影響されやすいので、【一番好きなジャンルはその時点で公式作品が流行しているジャンル、二番目は少し前に公式作品が流行したジャンル】というパターンの人はかなり多いはずです。


二つ目の理由は、作品の作り手にとって、読みたいものと書けるものには乖離があることが多いという事です。私も描き手としては、自分では中々話は思いつかないものの話を読むのは好きというジャンルは少なからずあります。

ギャグ漫画を読むのは好きなものの、ギャグ漫画を思いつかないという人は多いことでしょう。描き手にもそういった人は相当数いると思いますし、そういう人が別の趣味として百合漫画を描いていたなら、ギャグが読みたいけど百合をメインに書いている人ということになり、書けるものと読みたいものの乖離ということになります。そして、それは漫画の方向性に限らず、二次創作ジャンルについても言えることでしょう。


三つ目の理由は、申し込み時期の問題です。8月の夏コミの申し込み時期は2月、12月末の冬コミの申し込み時期は8月です。平均で、5ヶ月程度は申し込み時期と参加時期にタイミングのズレがあります。申し込む時点では本を出すのはかなり先という事になりますので、当落発表のタイミングにそれを見ても、その時点でのジャンルの人気とはかなり乖離があります。加えて、時期が離れているということは、描きたいジャンルの中でもある程度の頒布数が見込めるジャンルに申し込むというサークルは、「まだかなり先のコミケの時期でもこのジャンルなら頒布数は見込めるだろう」という安定感や話題性のあるジャンルを選びがちです。そうなると、「そろそろ衰退し始めるか?」という噂のあるジャンルは、過剰にリスクを見込まれ、申し込みを敬遠される事が多くなります。


何かと、コミケでのジャンルの申し込み数のみを見て、やれ「オワコン」だのと騒ぐ声は多いです。恐らく、そうやって騒ぐのは、元々そのジャンルのことを嫌っている場合が多いでしょう。しかし、そういった騒ぎの声というのも、スペース数と人気度が乖離しうるということを考えると、あまり根拠のあるものとは言えません。

一定数売れなければサークルとして活動しにくいケースというのはありますし、本を作ったからには出来るだけ多くの人に見てもらいたいものですから、ジャンルの盛衰が気になる人は多いと思います。しかし人間の気持ちの動きというのは中々表面的な数字だけでは見えてこないことが多いです。ですので、自分のジャンルのスペース数が減っていたからと、あまり悲観的になる事はないと思います。

どうも理屈くさく書きすぎているなあと

このブログも、始めてからそこそこ経つので、段々記事を書くことにも慣れてきたわけですが、ここ数日ちょっと更新が止まっていました。で、よく考えてみれば、最近ちょっと記事の中で理屈をこねすぎているかもなあと思いまして。

もともと私自身は頭でっかちで、ちょっと物事考えすぎるくらいに考えてしまう癖があります。それ自体悪いことばかりではないんですけど、気軽にブログ書いていくにあたって、堅苦しく理屈を組み立てすぎると、読んでいて疲れる文章になってしまうんですよ。

実際、四角四面に正しい事を正しく語るのって、世の中に何かを訴える上ではあまり有効でもないと思うわけです。人間そんなに賢くはない…といいますか、どれだけ賢い人間でも常に賢さを発揮していると疲れますから、若干極論でも、単純で分かりやすい話には多くの人が惹かれるものです。

ニュートン力学が実のところ現実の物理学としては厳密に正しくないとしても、それなら量子力学という正しい理論なら誰にでも通じるかというと、やはり多くの人に分かりやすいのはニュートン力学なのです。「全面的に正しいこと」が人々に受け入れられるかといえば、受け入れられるか受け入れられないか以前の問題として、はなから理解されないことが多いです。

本来、本当にきっちりした文章にしようと思ったら、それこそ論文のように、様々な出典を明記していくべきです。しかし、論文的なアカデミックライティングは、学術以外の世界でも「正しい書き方」かというと、別にそんな事はありません。

私自身は、理解されにくいことを、理解しやすいように説明するというのが好きですし、割と得意な方だと思っています。漫画を描いているのは、言葉で伝わりにくい事を漫画で表現するのが面白いから、というのが理由の一つでもあります。理解しやすいようにするには、ある意味、論文的な真っ当さは切り捨てた方が良い場合が多いと感じます。

まあそんな感じで、ちょっと今後もう少し肩の力を抜いて記事を書いていくようシフトしてみようかなと思ったのでありました。まあ、今までちゃんとしたブログの更新がここまで続いたことはありませんし、初めての事が試行錯誤となって方向性が揺れ動くというのは、極々自然なことでもありますので。

中二病は「型外れの予行演習」かも知れない

中二病という言葉は、もう世間に普及して久しいです。普及が進む過程で意味合いの変化もあったとは思いますが、基本的には、中学二年生位の年頃の少年少女が、自らの特別性に関して様々な夢想を巡らせて、それが言動の端々に表れるような現象を指します。また、中学二年生頃によくあるというだけで、それ以外の年頃の人でも、同じような思考のもとで「イタい」言動が現れていれば、それもまた中二病と言われる事が多いです。

私自身も、「年齢的に特にこの時期に」と時期をはっきり特定はし辛いものの、世に言われる中二病的な思考を少なからず持っていた時期がありました。といっても、いわゆる「魔術書」を作ったりといったものではないので、世間一般にもてはやされるような「イタさ」のものではありませんでしたが。

ひとまず中二病的思考というと、まず自らに隠れた特別な力があるという夢想と、自らがその特殊性により周囲の人間に馴染めないという認識とで織り成されるものと言って良いと思います。この思考がどうやって生ずるのか考えてみようと思います。


中二病的思考の起こりについて私は、「周囲に馴染めないという認識」が先に発生して、その上で「自らに隠れた特別な能力を夢想する」という夢が起こるのではないかと思っています。「隠れた特別な力」とはつまり、【周囲から評価される機会や行使する機会が得られない能力】の事です。「隠れた特別な力」が隠れたものであるのは、周囲より与えられる機会に問題があるという事です。自身にとっての自身の能力や性質に、周囲から認識される自身のそれと、ギャップがあるという状態です。よって、「隠れた特別な能力」への夢想は、つまり「周囲に馴染めない」事に起因すると言って良いと思います。また、単純に、周囲に馴染めていれば、自身の能力について、「隠れた特別なもの」であることを期待する必要がないだろうという面もあります。


さて、この「周囲に馴染めない」という認識なのですが、ここでいう周囲というのは、多くの場合は家庭と学校での周囲です。その中でも、特に周囲とのギャップを感じやすいのは学校でしょう。家庭というのはそれぞれ、母親、父親、子供でも兄姉、弟妹というように、一人ひとりの役割や立場が違う環境です。しかし、生徒にとって学校というのは、同じ「生徒」という立場の人間が大勢います。自らの周囲とのギャップは明らかに学校で感じることが多いはずです。


そう考えてみると、中二病は、周囲とのギャップを感じた少年少女が、「周りと浮くこと」自体を試してみる為の行動なのではないかと思えるのです。学校というのは何かと、生徒を型にはめる指導が行われがちです。更に言うと、皆が将来「平凡なサラリーマンや主婦」といった、その時代その地域の「平均的な生き方」をする事を前提にした指導です。その中で周囲とのギャップを感じた少年少女は、「平均的な生き方」が自分に合わない事に、将来への危惧を抱く事でしょう。その時、それ以外の生き方について想像する事になります。そして自分の環境から大きく離れた所に、現状への不満の反動として、「隠れた特別な能力」というポジティブな夢想を行うのです。


その点で、私自身は、中二病的というものを何かと肯定的に捉えています。これは、画一的に生徒を型にはめる指導を行いがちな現代の学校教育への反感によるものでもあります。そして同時に、中二病という現象を、「当人なりの特殊な生き方のシミュレーション」として見ると、生物として積極的に、自分の生き方を試しているように感じるのです。

戦後の日本社会は国民の勤勉さで国際社会をリードしてきましたが、これからはそうは行きません。変化を求めず勤勉に働くだけでは、大きく変わり行く国際経済の流れについていけなくなる事でしょう。今後、日本が突入していくであろう「画一的なだけでは生き残れない社会」においては、様々なギャップと向き合う姿勢が肝要になります。その点では、中二病を好意的に捉えるような視点が広がっていけばと思っています。

修正しながら精緻に絵を描く能力と、さくさくと描く能力

今回の記事はほぼ自分向けの覚え書きです。なので普段以上に理屈はおざなりです。


絵を描いていて、画力が伸び悩みを感じたり、もしかしたら退化しているのではないかと感じたりする事があります。練習のブランクがあるという場合を除くと、経験上、そういう時には絵の練習に偏りがある事に気付く事が多いなあと感じています。偏りといっても色々ありますが、中でもよくあるのが、精緻な絵を描く練習と、さくさく絵を描く練習とのバランスに関してです。詳しく言うと、前者は、修正や加筆を繰り返しながら精緻に絵を描く練習で、後者は、一発描き等のようにさくっと短時間で絵を仕上げてしまう練習です。


特に私自身は速く描く練習に偏ってしまう事が多いのですが、精緻に描く練習をする事は、速く絵を描く能力を磨くにはとても効果的です。寧ろ不可欠といって良いと思います。精緻に描く練習をすると、自分の悪いクセとしっかりと向き合うことになります。また、余裕を持って絵に挑めますので、描ける対象や手段を増やす機会にもなります。

逆に、一発描きのような練習も、精緻に描く為に役立ったりします。一発でミスなく描き上げる訓練をすれば、精緻に描いていく際の修正の数を減らせますので、修正の繰り返しで自分の絵が迷子になるといった事を防止出来ます。また、一発描きは、集中して全体像をイメージする過程が必要です。全体像のイメージをはっきり持つ訓練は、精緻な絵を描くのにも非常に役に立ちます。


画力を上げる為には、「これだけをやっておけば良い」という、銀の弾丸と言える様な練習方法はないと思います。少なくとも、万人に通用する、画力向上の全能的訓練法はありえません。色々なやり方を試行錯誤していくことが肝要だと思います。

人を雇う以上はリスクを背負うのが当たり前で

現代の日本において、大部分の人は誰かに雇われて仕事をしています。そして、多くの人が、より良い待遇で自分に合った仕事を出来る事を願って職場探しをしています。

さて、ここ最近、「仕事を辞めるなら代わりを探してこい」とバイトの人に要求したり、辞めたがる社員に「ここでやっていけないなら社会で通用しないぞ」と脅迫めいた事を言ったりする雇用者がいるという話をよく見かけます。雇用者は、雇い入れた人間に対しては研修を行ったり管理を行ったりと少なからず時間と手間を掛けていますので、そのコストが被雇用者の退職により水の泡になるとなれば、心中穏やかではないものでしょう。

しかし、そもそも掛けたコストが不都合に消失するというのはビジネスではよくあることです。寧ろ、そのリスクを背負い、リスクを最小限に引き下げることはビジネスの本質的要素です。ビジネスとは、リスクのある投資を行い利益を上げる事です。そういう意味では人を雇うという事は投資であって、そこにリスクが付きまとうのは当然のことではないでしょうか。


逆に被雇用者の立場で考えてみましょう。職探しというのは、当たり外れが大きいものです。もしもブラック企業に入ってしまうと精神的に抜け出せなり取り返しのつかない事になる可能性もありますし、ブラックとまでいかなくても日常的に理不尽な扱いを受ける職場は少なくないと思います。また、職場として問題が無かったとしても、仕事内容が思った以上に肌に合わないという事もあります。転職をせざるを得なくなった場合、雇用されている期間に給与が貰えていたにせよ、転職先を探したり生活の準備をやり直したりというのはかなりの負担です。


雇用者にとって、人を雇い入れる行為は大きなリスクを伴う投資であるのと同様、被雇用者にとっても、誰かに雇われるという行為はまた大きなリスクを伴う博打です。まず前提として法規上、退職に関して被雇用者がそれ以降、属していた組織の為の「お世話」をする必要はありません*1が、同時に道義上も、雇われて仕事が上手く行かず辞める事になったりという事を気に病む必要はないと思います。リスクを背負っている者同士なのですから、お互いのリスクの拡大に関して、相手を執拗に責めるのは筋が通りません。要は、雇った相手に逃げられたということは、人を雇うという博打で負けたという事です。

雇われた側は雇った側よりも普段から立場が低いことが多いので、辞める事に関して責められると、納得する以前に感情的に押し切られてしまうことが多いと思います。特に、仕事を辞めるという時には不安があるのが当たり前ですので、より、他者の言葉に影響されやすいタイミングです。

しかし、お互いにリスクを負って選択をした結果、お互いに勝負に負けたと捉えてみると、雇われた側ばかりが責められる筋合いはないのです。雇われた側は雇った側のペースに乗せられず、自分も自分の生活を守る為の勝負をしているという意識を強く持っておくべきなのでしょう。

*1:守秘義務等は守る必要がありますが